或る日、森の中で

先回この川に来たとき、釣り終えてまだ車まで3、40分はかかる林道を歩いていると、イブニング狙いなのか、二人の釣り人がその道を上って来た。釣り人同士が出会ったときのお決まりの挨拶をした後、一人が言った。「熊に遭ったか?」

その日、林道と川の間の場所で熊を見たのだそうだ。今から一人で通る道で熊が出たと聞いて良い気持ちはしなかったが、鈴を手で鳴らしながら行けば大丈夫だろうと思った。人に遭遇した直後なら熊の方も警戒して鉢合わせすることもないのではということもあったし、そもそも釣り人は他の釣り人の話をあまり信用していないのだ。(自分だけか?)

その二人組が親切心から教えてくれたことを疑う要素は何も無いのだが(というか、きっとそうなのだが)、渓流釣りは先行者がいるとその日の釣果がほとんど期待出来なくなるし、その川で沢山釣られると魚が減ってしまうので、釣り人同士は基本的に『ゼロサム・ゲーム』をしており、「みんなで仲良く場所をシェアしましょう」というラブ&ピースな間柄ではない。とはいえ、他の釣り人に出会ったときに一々気分を害していたり、小競り合いをするのも大変な訳で、そこは大人に挨拶、調整、交流、自慢の場にするのである。他の釣り人の話を聞くのも楽しいものだが、そこで交わされる会話がいつも真実であるという保証は無い。それは相手を牽制する良い機会でもあるからだ。

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今度の釣行は台風の影響か、渓相が大きく変わってしまっていて、釣果が芳しくなかった。日が沈む前に車に辿り着かなければと、林道に上がり、歩き出してから暫くしたときだった。足下を見ながらだらだら歩いていると、前方でガサガサッという音がした。顔を上げると、林道から山に駆け上って行く黒い動物のお尻が見えた。

 教訓: 人を疑うなかれ。たとえ相手が釣り人でも。